マリアの物語

「わたしたちのような人々」

マリア(ポーランド名・マリルカ)の娘、スーザン・ハーストがマリアの話をもとに書き留めた体験記。

マリア・ウェイランド (2016年撮影)

イントロダクション

マリア・ウェイランド(家族のあいだでの愛称「マリシア」)は、第一次世界大戦――自称「すべての戦争を終わらせるための戦争」――の終結から2年と経たない1920年2月27日に生まれた。場所はポーランドの工業都市ウッチ(Łódź)。当時、そこには総人口の3分の1に当たる、およそ20万人のユダヤ人が住んでいた。


父方、ウェイランド(ヴェイラント)家

父方の祖父母は、二人とも私が2歳の時に亡くなったので、覚えていません。姓はヴェイラント。私の父ミハウは、もう一人いた男の子が夭逝したので、事実上の一人っ子でした。ミハウも、ほかのヴェイラント家の人々と同様、ウッチに住み、両親のアンナ、マルクス・ヴェイラントは二人とも1922年に他界しました。


母方、フェイフェル家

母方の祖父母はとてもよく覚えていますし、うちの家族アルバムのなかにも二人の写真が何枚かあります。祖母ローゼ・フェイフェル(旧姓コール)は、小柄で気さくな女性。9人もの子供を抱え、いつも懸命に働いていました。一番上の娘が子供を産んだ頃、彼女はまだ下の子供の面倒を見ていました。祖父のヴォルフは、背が高く、ハンサムで、どこか長老然とした男性でした。私は、カリシュ(Kalisz)に親族全員が集まって、祖父母の金婚式を祝った時のことを覚えています。フェイフェル家も大人数で多彩な一家でした。成人した子供は8人で、うち7人が娘でした。祖父ヴォルフは、私が11歳の時に亡くなりました。祖母のローゼは[1939年、ポーランドに侵攻してきた]ドイツ兵に射殺されました。その時、彼女は84歳で、健康そのもの、目も耳もまだまだ達者でした。たしか、叔母のゲニアが仕事から家に帰っきて、頭に小さな弾丸の穴を開けられた祖母の姿を見つけたのだったと思います。


私たちの戦前の暮らし

ウッチは、ヴェイラント家とその三人の子供、ハラ(ハリナ)、マリア(マリルカ)、マーセル(マルツェル)の故郷でした。父ミハウはドイツで教育を受けた工業化学の技術者で、デンマークの「オーフス石油工業」社の現地代表をつとめていました。同時に父は、当時、私たち女の子にとって羨望の的だったタイツを作る工場の共同経営者でもありました。

当時はあまり意識してませんでしたが、私たちは裕福な方だったのだろうと思います。家にはいつも料理人がいましたし、子供たちのために、最初は乳母、のちに家庭教師もついていました。父の会社から男の人が定期的に家に来て、大変な掃除仕事をこなしていました。私たちはいつも瀟洒なアパルトマンに住み、3人とも行き届いた教育を受けさせてもらいました。もちろんマーセルは、戦争が始まった時、わずか12歳でしたので、学齢期の一番いいところを取り逃がしてしまったわけですが、それでも彼は、その後の避難生活をつうじて、ヴィルニュスではロシア系の学校、日本ではアメリカ系の学校、上海ではイギリス系の学校という具合に学校に通い続け、残りの教育をシドニーで完成させたのです。

わたしたち家族は、長期休暇をバルト海の浜辺やカルパティアの山のなかで過ごし、そのほかにもスクールキャンプなどが年中行事としてありました。私は、最初、ある私立学校に入学したのですが、その後、地方政府で医者をつとめていた伯父の一人が、政府系の学校の方が高水準の教育をほどこしている、といって両親を説き伏せてしまいました。転校した私は、最初の頃、あまり嬉しくありませんでしたが、政府系の学校にもだんだん慣れて、結局、両方の学校で生涯にわたる友人を得ることができました。今でも、そのうちの何人かとは音信が続いています。

姉のハラは、戦争が始まる前、長年にわたる恋人ボレスワフ・ヤクボヴィッチ(愛称ボレク)と結婚しました。ハラはワルシャワで商業・経済を学び、ボレクはウィーンに留学経験をもつなど(ボレクのお母さんはウィーン出身だったので)、二人とも高学歴で、ウッチでもよい仕事につくことができていました。ハラは、大新聞『レプブリカ(共和国)』の経営部門で働いていました。この新聞は、マリー・ポラックの夫と、ほかの二人の共同経営者によるものでした(二人とも続く戦争期に死去)。彼らは皆、ヴィレンスキ家が所有する建物のなかのきれいなアパルトマンに住んでいました。そして、この建物のある同じ階に、ヴェイラント家、ヴィレンスキ家、ロスレイグ家の三家族が住んでいたのです。私たち家族のアパルトマンは、ガラスのスライド扉で仕切られた二つの大きなレセプション・ルームがある、比較的大きなアパルトマンでした。

私の前に姉もそうでしたが、私はクラス内でトップの成績でした。しかし、当時、ポーランドの大学の状況は、ユダヤ系の学生にとってあまり心地よいものではありませんでしたので[とくにヌメルス・クラウスス(ユダヤ出自による入学制限)]、両親と長いこと相談した末、私はベルギーのアントワープ(アンヴェール、アントウェルペン)にある商業高等学院に入学しました。

若き日のマリア

1939~1941年

1939年8月下旬、戦争になりそうだと察知した父は、家族全員がウッチの家に戻ってくるように命じました。そこで私は、ドイツを経由する直行列車ではなく、遠回りながらアントワープからポーランド船籍の貨物船に乗って家に帰りました。こうして無事に家に帰り着いた一週間後、戦争の火蓋が切って落とされたのです。9月5日の朝、私たちはドイツ軍がウッチに向けて進軍中との報をラジオで聞き、すぐさま車に乗り込みました。私たち6人、つまり両親、姉ハラ、義兄ボレク、当時12歳だった弟マーセル、そして私です。車は、ハラとボレクが持っていたフォード・アイフェルで、それほど大きくありませんでした。加えて、その時は時間とスペースが特に大切でしたので、私たちは、現金と宝石類以外、何も持たずに出発しました。こうしてウッチを離れた時、私たちは、それが事態収拾までの短い期間にすぎないだろうと考えていましたが、結局のところ、二度とそこに帰ることはなかったのです。

私たちは、絶えざる爆撃のもと、首都ワルシャワに向けて車を走らせました。。時折、車から降りて、道路脇の溝に身を隠さねばなりませんでした。それでもなんとかワルシャワ郊外にたどり着いたところで、ガソリン切れとなりました。ガソリンの使用はもはや軍事用に限るということで、手に入れることができません。そこで私たちは車を施錠し、そこに置きっぱなしにしました。もしかしたら、まだそこにあるかもしれません。キーはボレクが持っています。その頃、ワルシャワ向けの交通機関はまだ動いていました。ワルシャワで、私たちは友人のアパルトマンにたどり着き、その一日か二日後、ほかの人々も加えた大きな集団となって貸切トラックに乗り込み、東部のロシア国境を目指して出発しました。しかし、しばらく行ったところでトラックを諦めなければならない事態となりました。ガソリンと偽り、ただの水を入れられてしまったのです。

そこから私たちは、最初、馬に牽かせた荷車に乗って東部を目指し、なんとかルブリンに到着しました。そこで会うことができたゴチンスキー家の人々が、ねぐらを探すのを手伝ってくれました。翌朝、ルブリンは爆撃を受け、私たちは徒歩で東に向かいました。途中、川を渡る時に父が足を挫いてしまったので、私たちはロシア国境に近い小さな町まで、彼を引きずるようにして歩かねばなりませんでした。その町の名はコヴェル(コーヴェリ)といって、ユダヤ人も多く住むウクライナの町です。私たちは、ロシア軍がやって来るまで、そこに留まりました。ドイツとの協定にもとづき、ロシアがポーランドの東部を併合することになっていたのです。私たちは、食糧配給の列に並ぶかたわら、町を通り過ぎていく大量の人々のなかから親戚や友人を探し出そうとしました。数週間後、私たちは、リトアニア国境に近いポーランドの大都市ヴィルノ(現ヴィルニュス)がリトアニアに与えられることになる、と聞きました。当時、リトアニアはまだ中立国で、以前からヴィルノは法的に自国のものであると主張してきたのでした。

私たちは[コヴェルの]駅で、三日三晩、ヴィルノ行きの列車を待ちました。列車はようやくやって来て、私たちは、ドアや窓にぶら下がるようにしてそれに乗り込みました。数日後、私たちはヴィルノに着きました。この重要かつ端麗なるゴチック風の都市も、すでに難民で溢れかえっていました。それでも徐々にいろいろなことが組織されるようになりました。私たちは部屋を借りることができ、リトアニア人たちによる食糧の差し入れが始まり、難民救済委員会が発足し、難民用のキッチンも設置されたのです。誰も空腹に悩まされずにすみました。私の母が、日に二度、食事を提供する難民キッチンを切り盛りするようになっていたからです。こうして私たちは、一年以上、リトアニアに滞在しました。私は小さな子供たちの面倒を見てやり、まだ学校が機能していなかったので、ちょっとした個人レッスンもつけてやりました。それでも、その間ずっと、私たちは身の不安を感じていました。父は絶えず、ヨーロッパの外へ逃れ出る可能性を探っていましたが、初めの頃、あまりうまく行きませんでした。そこへ歴史が割り入ってきます。ロシア軍がふたたび戻ってきて、リトアニア、エストニア、ラトビアの独立時代に終止符が打たれてしまったのです。


1941年:私たちの次なるエクソダスが始まる

人々はなお、希望を捨てず、脱出の道を模索していました。当時リトアニアの首都だったカウナスには、あるオランダ領事[ヤン・ツヴァルテンダイク]がいて、ユダヤ人の難民たちを助けようとしていました。彼は、私たちにキュラソー(当時オランダ領西インド)行きのヴィザを出してもよい、と言ってくれました。キュラソーへの上陸はおそらく許されないだろうが、もしかしたら、このキュラソー作戦の延長上、別の場所へのヴィザを取得することができるかもしれない、というのです。そして、ここでカウナスの杉原千畝の行動のおかげで、私たちは10日間有効の日本通過ヴィザをなんとか手にすることができたわけです。杉原千畝は、1939年にリトアニア着任を命じられた日本の領事代理でした。その表向きの肩書きこそ控え目のものでしたが、彼の主要な任務は、ソ連とナチス・ドイツの国境付近の状況について、落ち延びてくるポーランド人将校たちから情報を収集することでした。

一番の懸念は、ロシア側が私たちを通過させてくれるかどうか、という点でした。これはかなり入り組んだ話でした。まずロシア側は、ウラジオストックまでの横断旅行に要する費用をアメリカ・ドルで支払うよう、求めていました。その一方で、外貨を携えてソ連領内を移動することは禁止され、法で罰せられることとなっていました。「キャッチ=22」的状況とは、まさにこのことです。かてて加えて、高学歴の若い難民たちは、もしも彼らが最終到着地でソ連のスパイになることを受け入れるならば、どこへでも出立が許されるだろう、と言われていました。人々は、あらゆる言い訳をもって拒否するか、あるいは、やけっぱちで受諾するか、どちらかでした。

最終的に、恐る恐るではありましたが、私たちも旅行費用をドルで精算し、1941年2月、ヴィルニュスを発ち、シベリア鉄道でウラジオストックを目指しました。およそ1500人が、一ヶ月のうちに、同様のやり方でヴィルニュスをあとにしました。こうして、どうにかこうにかロシアを横断し、ウラジオストックに辿り着くまで、二週間以上の旅でした。旅行といえば簡単そうですが、実はそうではありません。真夜中に、ロシア官憲による、いつ終わるとも知れない所持品検査があったりして、最後の最後まで、本当にロシア側が私たちを通過させてくれるかどうか、わかったものではありませんでした。ウラジオストックでは、ロシアの税関が私たちのなけなしの所持品を徹底検査し、腕時計を没収したりしましたが、その後、ようやく、ようやく、私たちは小さな日本の貨物船、天草丸の船上までエスコートされ、日本に向けて出航したのです。


神戸

満員の船上、船酔いに苦しめられながらも、私たちは、1941年4月[正しくは3月13日]、日本に到着しました。桜の花が満開で、田園地帯の景色全体が花でおおわれていました。日本の小さな女の子たちのキモノ姿は、まさに絵を見ているようで、何週間ものシベリア横断をつうじ、雪と泥と貧困しか目にしていなかった私たちは、本当に〈パラダイス〉にやって来たような思いでした。

私たちは、大阪や京都にもほど近い可愛らしい町、神戸に連れて行かれました。そこで私たち一家は、アメリカのユダヤ団体「ジョイント」やロンドンのポーランド亡命政府など、さまざまな救援組織に助けられながら、8ヶ月を過ごすことになります。日本の人たちにもとてもよくしてもらいましたが、滞在の終わりの方になってくると、戦争が始まりそうだというのに、私たちが何も知らない、というので、怪しいと思われたのでしょう、どこへ行くにも尾行されるようになりました。日本は戦争の準備をしていて、あらゆる外国人が潜在的なスパイとみなされていたのです。

当時、東京にはまだポーランドの大使館があり、とても頼りになる大使[タデウシュ・ロメル]が、難民たちの移住許可をめぐって手配を試みていました。彼は、一部の人々(主として軍事関係者)がカナダへ行けるようにしたほか、南アフリカに数名、オーストラリアに約100名、ニュージーランドに約40名、それぞれ出立できるようにしてやりました。しかし、時間が足りない上、日本当局も、今やすべての外国人が日本の外に出るよう、欲していました。行き先が見つからない残りの人々は、皆まとめて上海へ送られ、ほとんどの人が、そこで約5年を過ごすこととなります。


上海経由、オーストリアへ

私はカナダの入国許可を手にしていましたが、その頃までに、すでに日本はカナダとの国交を絶ってしまっていました。そこで私は、かわってオーストラリアへ行き、そこにあとから家族が来られるようにしよう、と決断しました。1941年11月、私は上海に家族をおいて出発しました。その後、何年間も会えないことになろうとは、しかも、私が父の姿を二度と見ることなく終わるであろう、などとは(というのも父は1942年、上海で亡くなったので)、その時点で私たちは思ってもみませんでした。

家族のみんなに別れを告げるのは胸が張り裂けるような気持ちでしたが、私は、オーストラリアに行く15人ほどのグループに加わって上海をあとにしました。客貨兼用のオランダ船で、途中、香港、マニラ、オランダ領東インド(インドネシア)に寄港しました。完全な灯火管制のもと、船はゆっくり進んでいき、ようやくシドニーに到着したのは、真珠湾攻撃のわずか一週間前のことでした。

1941年、上海にて 父ミハウと写した最後の写真のひとつ


(訳:菅野賢治)


本サイトはJSPS科研費 17K02041 / 18KK0031の助成を受けたものです。