プロジェクトの趣旨

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2016年、オーストラリア・メルボルン。第二次世界大戦期のジェノサイドを免れた元・ユダヤ難民、マリア(1920年生まれ)との出会いがすべての始まりだった。

Maria

1939年9月、19歳だったマリアは、ナチス・ドイツによるポーランド侵攻にともない、家族(両親、弟、姉とその夫)とともに故郷の町ウッチを離れた。リトアニア、ヴィルニュスで、心もとない難民生活を15か月送ったのち、一家はシベリア鉄道に飛び乗り、ウラジオストック、そして海路、日本へ。これを可能にしたのは、リトアニア・カウナス日本領事代理・杉原千畝が発給した通過ヴィザだ。冷たく荒れた日本海を渡り、たどり着いた福井県・敦賀の港は花と日の光に満ち、マリアはようやく生きた心地に・・・・・・

かつての敦賀港駅

身を寄せた神戸の町はしかし、日米開戦が迫る中、安住の地にはなってくれなかった。マリアは当初、カナダ行きを希望していた。しかし、ヴィザ取得の困難はもとより、日米間の摩擦が高まり、太平洋横断の船旅はますます困難となっていった。日本政府と兵庫県も、滞留するユダヤ難民たちの処遇に困り果てた末、彼らを皆、上海へ送り込むことを決断する。 マリアの家族も、日本から別の新たな土地へ渡航するためのヴィザと切符を懸命に探し回ったが、手に入ったのは、オーストラリア行きの船のチケット1枚のみ。そこで、マリアの父ミハウは彼女に言った。「おまえの姉には夫がいる。弟はまだ小さすぎる。よって、おまえが先に一人でオーストラリアへ行き、あとでわれわれ全員を呼び寄せるための手配をするのだ。」こうしてマリアがシドニーに到着した、わずか10日後、太平洋戦争が勃発。オーストラリアで一人ぼっちとなったマリア。大切な家族は、日本軍政下の上海にくぎ付けとなったまま・・・・・・。この別離が5年もの長きにわたることになろうとは、当初、誰も予想できなかった。

Maria, Suzan, and Kenji in Melbourne
マリア(中央)、娘のスーザン・ハースト(左)、菅野賢治(右)(敬称略 2016年撮影)

第二次世界大戦から80年経た今も、各地の紛争と貧困は難民を生み出し、数限りない離散(ディアスポラ)を引き起こしています。彼らが常に直面している問いは、「どこに行けばよいのか」であり、それは、かつてユダヤ・ジェノサイドにともなう難民たちが口にしていたのと、まったく変わるところがありません。本プロジェクトは、マリア、ならびに弟マーセルの語りを通じ、難民の視点から asylum の本質的意味を考える、歴史とアートの融合プロジェクトです。予告編「海でなくてどこに」から、その最初の問いを感じていただければ幸いです。

プロジェクト名に冠した「マリルカ」は、主人公となるマリアのポーランド名にちなみました。「マリルカ」と「マリア」。古い名と新しい名。その両方が、この離散物語の重要なパートを演じています。つまり、かつてあったことを思い出し、そして、これからあるだろうもの ー願わくは、それが迫害と追放のない新世界であってほしい ーを思い描く、その両方の所作をつうじて。


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